2014/08/25 100TREESと展覧会の話

「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展」に行った。15時30分だった。ホワン・ミンチャン(黄銘昌)の『向晩Ⅰ』は遠くから見るとほんものの芝がキャンバスに植えられているように見えた。絵の前に突っ立っていてもそう見えた。なんだかカカシみたいだった。『一方心田』も同じくらいそうだった。むしろ南の島だった。

 

ポール・チアン(江賢二)の四連作は秋のものがとても好きだったし、リウ・ウェイ(刘炜)のよく分からない白の油絵具を横方向で塗りつけスクレイパーかパレットナイフで刻印されたしっちゃかめっちゃかのクレバスが良かった。右上の刻印だけが文字になっていて「100 TREES」と読めた。百本の木。

 

それからフランシス・ベーコンが今年もいた。一年ぶりに会った。ベーコンは相変わらず顔を三方向から見られるタイプの三幅対と昼の教皇がいた。私は夜の教皇の方が好きだ。一緒に行ったイサナはゲルハルト・リヒターとトーマス・シュトゥルートとアンドレアス・グルスキーの飾ってある部屋をぐるぐるぐるぐる回っていた、ほとんど足を止めずに流すように見ていたが何度も何度も見ることでむしろ写真の中に自分を出現させようとしていた。シュトゥルートの写真が見る-見られるような構図になっているのと同じようなものだと思おうとしたが全然そんなことはなく、ただの気のせいだった。

 

リウ・ウェイの薄桃色をした白い絵は《名づけうるものが明確であるというわけではない》と題されていて、アラビア語楔形文字を合わせたような模様がそこかしこに見られた、文字だと思ったが読めないというかむしろ算木の組み合わせのようで、閉館時間が17時ぴったりだったからぎりぎりまでいたら知り合いと会った。100 TREESの話はし忘れて、結局今これを書きながら思い出している。百本の木。

 

写真は複数のものを同一の目で撮影する。いちおう焦点は存在するが、グルスキーが志向しているそれは全てにピントが合い、情報の吹雪に晒される。身を隠すために眼鏡を外すと全てがぼやけるからいつもの状態になったと思った、でもこれって結局同じではないのか。視界に入るものが全て茫漠とし幽霊みたいに輪郭を滲ませ枠の内側から湧出し膨れ上がり溶けだす風景と、可能な限り鮮明に収めそばかす一つまで残さず、産毛さえ一本を見分けられるほど強烈な照明の下に晒されるのと。あらゆるものにピントが合うがゆえにあらゆるものにピントが合わない状態と、あらゆるものにピントが合う状態というのは確かに違うのだけれども、どこか似通ってきて……いやそれはあくまで裏と表だったり一週目と二週目だったりするわけだから違う?