『さらば、愛の言葉よ/Adieu au Langage』を見に行った話

昨日、シネスイッチ銀座ゴダールの『さらば、愛の言葉よ(Adieu au Langage)』を見に行った。午後三時からのの回だった。公開からまだ一週間しか経っていないから見に来た人はぞろぞろと列になってチケットを買っていた。窓口が二つしかないから捌ききれず、隣に会議室用の長机を出して臨時の窓口を二つ追加して、なんとか全員をスクリーンに入れた。チケットを買ってからお昼を食べて、ぎりぎりで滑り込んだ。

『アワーミュージック』の残響が至る所にあって画面をちらつかせる、でもそれは撮られた映画の中というよりは見ている私の方にある。ガス工場(USINE A GAZ)の白抜きになったAの文字とそれ以外の赤い文字、まあいつも通りのトリコロール・カラー(フランスの国旗の赤-白-青)、と流していくに際し、3Dメガネを通して図像が二つに分裂する。右目で見るときと左目で見るときで別々の映像が見える。両目を開くと半透明な映像同士が二重になる。ふと思うとガラス越しの風景が非常に多かった気もする、とするとカメラ-スクリーン-目、という形での複層的な、地層や解剖図を思わせるようなショットだったとも思う。二重性と半透明性、3Dメガネを外すと視差のせいで輪郭から溶け出したかのように見える人間。そもそもひとつのショットの中で、3Dになるものとならないものの二つが存在すること自体ありえない視界であろうな、とも。そうした図像の二重性は、映画の2章構成や双数性にも引き継がれる?

雑然と考えているうちによく分からなくなりがちなのだが、なぜAdieu au Langageなのかは分かるような分からないような、いやそこを考えても仕方がないのだろうか。動物(この作品では犬)になること、の喩えとして持ち出されているのなら、犬の目線は常に中程度で、人間が這っているときよりも高い位置にあった。複数性を貫通し闊歩し往来する一匹の犬になるということなのか、いや相変わらず分からんよなあと言いながら映画館を出て家に帰ったのでございました。