三連休に台風が来ない話

三連休に台風は来なかった。どちらかと言えば天気も悪くなく曇るだけで、小雨特有のぱらぱらベランダに落ちる音もない。私の部屋の窓からは遠くの橋とちょうど十字に交差する首都高の環状線が見えたし、換気口に耳を近づければ2tトラックがアスファルトに轍を残す音も聞こえる。夜に土手から環状線の方を見やれば、背の高いトラックが通過するたび川に映った該当の光が隠れたり現れたりする。普通車ではそうならない。規則性を持って点滅するのが面白くて、30秒ほどInstagramで動画を撮ってから引き返す。家に帰って水を飲み、7時間ほど眠る。

 

10月の10日は所属している団体(半分所属半分非所属的な変な紐帯だ)のボードゲーム会に行った。『ダンジョンオブマンダム』と『王宮のささやき』と『想像と言葉』それから『God's Gambit』を遊んだ。オインクゲームズのボードゲームはすべからく面白い上に密度が高い。『小早川』はシンプルそのものだが読み合いがアツい。途中でお札を崩すためにドイツパンを買った。結局1000円を払っていない。忘れている。

 

次の日も次の日でゲーム翻訳ジャムに参加した。何十人かで集まり半日で短めのインディーズゲームを一本訳すというもので、それはそれはトラブルの連続だった。翻訳者に渡すはずのテキストファイルが無く、仕方ないのでUnity経由でゲームデータをこじ開けた上暗号化を解いてやる必要があった。中に入っていた画像データを抜きだして、次に画像データから問題文を読みとり、タイピングしたリストを翻訳者に渡して英→日の翻訳を行う。他にもメニュー画面のテキストが画像で構成されているので、それを日本語化するためにグラフィッカーの方々が奔走したり、足りない部分の補足やトラブルシューティングを行ったり……とややこしいことが続く。どうにかこうにか、所定時間を多少オーバーしたものの無事終了。

 

そして今日は原稿である。そういえば、この辺り一帯は東京大空襲の時に何ひとつ残らず焼け死んだという。

人間のいる、人間のいない風景を見てきた話

『リヴァイアサン』をすげえなと思っている人(後輩)と見に行った。

 

漁船の一日(ですらない?)を撮ったドキュメンタリー映画なのだけれど、全然ドキュメンタリーじゃない。撮影は防水・小型のカメラGoProで行われている。はじめ、人間がカメラを持っている。明け方の船上から映された、手ぶれがひどい映像がしばらく続く。やがて映像は切り替わり、今度は船員の服や捌いた魚を放り込むための魚槽、死んだ魚、海に放り込まれて無数の魚を食べてゆく網、テーブルの上、エトセトラ、エトセトラに設置される。海面と海中を往復したり、船から排泄される使い物にならないエイの部品や死にたての血液を多量にふくんだ水、魚倉で打ち寄せる波に合わせて揺れる浮き袋が口からあふれたキンメダイやメルルーサの群れ、捌かれて内臓をひたすら破棄され続ける映像に、漁船と並走する百羽近い健康なカモメやマストから見下ろした船員たち、シャワーを浴びるタトゥーの水夫が入り混じる。

 

カメラの揺れが船体や水の揺れと完全に同期する、あるいは人間の筋肉の制御を離れることで、「人ではないなにか」が撮影しているような奇怪なものとして世界が映写される。それが延々と続く。音は安定して位置を教えてくれるけれど、映像は、端的に言って(ちょっと大げさすぎるかもしれないが)世界が私たちに無関心-無縁に運営されていることを思わせる。有人の風景を無人(非-人間)の存在が撮る。

 

同行者は「ゴダールみたいに疲れる」と言っていて私は「キュビズム的な」と言った。後にも先にもこれだけ疲れる映画は久しく見ていないから、90分間ずっと筋トレをしているようなものでばきばきに疲労した。手ぶれがひどいからすごく酔うし。実は映像も形態的類似をベースにして接続されている個所がたまにあって(シャワーを浴びる水夫/水洗いされる魚の死骸etc)、カモメ/魚の死骸、海面/海上の切り返しや上下反転と夜であることによって「海の中にいる」ことと「海の上にいる」ことの区別がつかなくなる(海中から航跡を見ると、夜闇の中で海が部分的に発光しているふうにしか見えない)。網から投下されるヒトデの山たるや、幻想的なるフィルタを全て剥ぎ取ってぼこぼこ落ちてゆく。

 

また見たいんだけど間違いなく酔う。そのあと、辛いものが大好きだけどよくお腹を壊すこれまたすげえなと思っている人(こっちは同級生)もまじえて火鍋を食べて、途中で抜けてすげえなと思っている羊の人(そして先輩)とひとしきり飲んだり話したりしてから帰った。

 

そろそろ『この空の花』を見返そうと思った。というか映画見たいね。

2014/08/25 100TREESと展覧会の話

「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展」に行った。15時30分だった。ホワン・ミンチャン(黄銘昌)の『向晩Ⅰ』は遠くから見るとほんものの芝がキャンバスに植えられているように見えた。絵の前に突っ立っていてもそう見えた。なんだかカカシみたいだった。『一方心田』も同じくらいそうだった。むしろ南の島だった。

 

ポール・チアン(江賢二)の四連作は秋のものがとても好きだったし、リウ・ウェイ(刘炜)のよく分からない白の油絵具を横方向で塗りつけスクレイパーかパレットナイフで刻印されたしっちゃかめっちゃかのクレバスが良かった。右上の刻印だけが文字になっていて「100 TREES」と読めた。百本の木。

 

それからフランシス・ベーコンが今年もいた。一年ぶりに会った。ベーコンは相変わらず顔を三方向から見られるタイプの三幅対と昼の教皇がいた。私は夜の教皇の方が好きだ。一緒に行ったイサナはゲルハルト・リヒターとトーマス・シュトゥルートとアンドレアス・グルスキーの飾ってある部屋をぐるぐるぐるぐる回っていた、ほとんど足を止めずに流すように見ていたが何度も何度も見ることでむしろ写真の中に自分を出現させようとしていた。シュトゥルートの写真が見る-見られるような構図になっているのと同じようなものだと思おうとしたが全然そんなことはなく、ただの気のせいだった。

 

リウ・ウェイの薄桃色をした白い絵は《名づけうるものが明確であるというわけではない》と題されていて、アラビア語楔形文字を合わせたような模様がそこかしこに見られた、文字だと思ったが読めないというかむしろ算木の組み合わせのようで、閉館時間が17時ぴったりだったからぎりぎりまでいたら知り合いと会った。100 TREESの話はし忘れて、結局今これを書きながら思い出している。百本の木。

 

写真は複数のものを同一の目で撮影する。いちおう焦点は存在するが、グルスキーが志向しているそれは全てにピントが合い、情報の吹雪に晒される。身を隠すために眼鏡を外すと全てがぼやけるからいつもの状態になったと思った、でもこれって結局同じではないのか。視界に入るものが全て茫漠とし幽霊みたいに輪郭を滲ませ枠の内側から湧出し膨れ上がり溶けだす風景と、可能な限り鮮明に収めそばかす一つまで残さず、産毛さえ一本を見分けられるほど強烈な照明の下に晒されるのと。あらゆるものにピントが合うがゆえにあらゆるものにピントが合わない状態と、あらゆるものにピントが合う状態というのは確かに違うのだけれども、どこか似通ってきて……いやそれはあくまで裏と表だったり一週目と二週目だったりするわけだから違う?