人間のいる、人間のいない風景を見てきた話

『リヴァイアサン』をすげえなと思っている人(後輩)と見に行った。

 

漁船の一日(ですらない?)を撮ったドキュメンタリー映画なのだけれど、全然ドキュメンタリーじゃない。撮影は防水・小型のカメラGoProで行われている。はじめ、人間がカメラを持っている。明け方の船上から映された、手ぶれがひどい映像がしばらく続く。やがて映像は切り替わり、今度は船員の服や捌いた魚を放り込むための魚槽、死んだ魚、海に放り込まれて無数の魚を食べてゆく網、テーブルの上、エトセトラ、エトセトラに設置される。海面と海中を往復したり、船から排泄される使い物にならないエイの部品や死にたての血液を多量にふくんだ水、魚倉で打ち寄せる波に合わせて揺れる浮き袋が口からあふれたキンメダイやメルルーサの群れ、捌かれて内臓をひたすら破棄され続ける映像に、漁船と並走する百羽近い健康なカモメやマストから見下ろした船員たち、シャワーを浴びるタトゥーの水夫が入り混じる。

 

カメラの揺れが船体や水の揺れと完全に同期する、あるいは人間の筋肉の制御を離れることで、「人ではないなにか」が撮影しているような奇怪なものとして世界が映写される。それが延々と続く。音は安定して位置を教えてくれるけれど、映像は、端的に言って(ちょっと大げさすぎるかもしれないが)世界が私たちに無関心-無縁に運営されていることを思わせる。有人の風景を無人(非-人間)の存在が撮る。

 

同行者は「ゴダールみたいに疲れる」と言っていて私は「キュビズム的な」と言った。後にも先にもこれだけ疲れる映画は久しく見ていないから、90分間ずっと筋トレをしているようなものでばきばきに疲労した。手ぶれがひどいからすごく酔うし。実は映像も形態的類似をベースにして接続されている個所がたまにあって(シャワーを浴びる水夫/水洗いされる魚の死骸etc)、カモメ/魚の死骸、海面/海上の切り返しや上下反転と夜であることによって「海の中にいる」ことと「海の上にいる」ことの区別がつかなくなる(海中から航跡を見ると、夜闇の中で海が部分的に発光しているふうにしか見えない)。網から投下されるヒトデの山たるや、幻想的なるフィルタを全て剥ぎ取ってぼこぼこ落ちてゆく。

 

また見たいんだけど間違いなく酔う。そのあと、辛いものが大好きだけどよくお腹を壊すこれまたすげえなと思っている人(こっちは同級生)もまじえて火鍋を食べて、途中で抜けてすげえなと思っている羊の人(そして先輩)とひとしきり飲んだり話したりしてから帰った。

 

そろそろ『この空の花』を見返そうと思った。というか映画見たいね。